生まれ育ったかけがえのない私の故郷、静岡県由比町での思い出を中心に、愛情深く育ててもらった父母、近所の皆さん、故郷の友達、小学校の先生などに感謝をこめて書きました。
このたび弊社のホームページに載せさせてもらいましたが、円高で輸出一辺倒だった商売を100%失いその後売上高ゼロから苦悶に苦悶を重ねた父母も、また保険会社から遅れて転んで戻った私も今も故郷とともにあります。何卒お許しください。
2021年1月 いなば食品社長 稲葉敦央
私は生まれも育ちも由比町だ。由比のサクラエビは夜になると、深海から海中のプランクトンを追って海面に浮上する。秋漁開始は毎年おおむね11月からだが、由比ではこの時、エビを追うかのように数百メートルの深海から2種類の巨大魚が浅瀬にやってくる。バラムツとサットウ(アブラソコムツ)だ。ともに体長1.6メートル、体重80キロにもなる。泳ぐ姿は一つ一つが魚群探知機の画面に映しだされるほど。弟と2度釣ったが、海面でジャンプするさまはまるで巨大オオカミがうなり声を上げて暴れ回るようなド迫力だ。
高校生のころ、ニュースで「川崎の主婦が下痢をしたので、厚生省はバラムツを食用禁止に指定しました」と聞き驚いた。由比では昔から子供も大人も我が家でも好きで食べて来たのに。バラムツの身は真っ白で蝋分が非常に多くこれが消化されない。地元では「通す」と言うのだが、「下痢」というより、蝋が消化されないで下からチュルっと出てくるだけのことだ。
中国ではこの間まで「深海雪魚片」として堂々と売られていたが、ついに食用禁止になったと4月に地元のテレビが報じた。韓国ではなんと白マグロ(キルムチ)と称して鍋用にまだ流通していると聞く。アマゾン川にもピラルクというのがいるが、由比の海にもこのような大魚がいることは自分の誇りだ。深海から水圧の変化をものともせず、あれだけの大魚が浮上してくるなんて海のロマン、大自然の豊かなる恵みだと心からそう思う。
今からもう半世紀も前、私がまだ小学校の低学年のころ、父は夏になると私と弟を連れて近所の由比川の河口の海で投網を打ってくれた。投網にゆくよ、と言われるとその日は朝から手放しでうれしくて、父親と手をつないで岸辺まで行ったものだ。由比の浜にはお相撲もサーカスも来たし、なによりその海岸線は宝石箱のように美しかった。
その由比の海岸も東京オリンピックの頃から始まった高速道路建設の犠牲になった。小学生5年生のとき、かけがえのない美しい砂浜が無残にもブルドーザーで埋め立てられたのだ。
子供心にはなぜ大切な遊び場の海がなくなってしまうのか、理解できなかった。毎日怖くてそ〜っと海に出かけた。登り慣れた防波堤の陰からそっとのぞくと、どんどん埋め立てられる海の様子が見えてとても悲しかった。ある日、工事現場で逃げ遅れたカニさんを見つけた。もうすぐ干上がる水のなかで逃げまどうカニ。かわいそうでかわいそうで涙がでた。それを思って夏休みに「海を返せ」という作文を書いた。
あれから50年、海岸線は失ったが、昔と同じ由比の海は魚でいっぱいだ。あのカニさんの兄弟の子供たちも今は無数に増えて海を泳いでいることだろう。故郷の海を見るたびに投網の魚のことを思い出す。前が海、後ろが山という自然の恵みに接することができたかけがえのない少年時代が自分にあったことを今でも私は神様に、そして亡き父と母に感謝し人生の誇りとして今を生きている。
南米コロンビアにボゴタという首都がある。以前スペイン語の研修で滞在した。この町は標高2600メートルにあり、チベット並みに酸素が薄いから、運動するとはじめは息も切れる。お客がいればどこでも停(と)まる歩合制の「ブセタ」というバスがあり、毎日鈴なりにぶら下がって学校に通った。滞在中は全てが新鮮で非常に楽しかった。「百年の孤独」のノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスが著名で、穏やかな混血による世界的な美人の産地としても知られている。
その町で、ハイメリオ・スグマンという国務大臣の家にやっかいになったのだが、家の長女が、ボゴタではなんと男子出生1に対して女性の出生が2なのよ、というので高校の教科書を見たら、スペイン語で本当にそう書いてあった。高地でホルモンの影響からか、女性が過多になるらしい。
そういう事で男は忙しいから、この家の家長もいつも不在で家にいなかった。家のおばちゃんはロサルバといって当時40代後半の太った夫人だったが、結婚式の写真が半分に引きちぎられていて、半分笑いながらも夫の写真を時々たたいて怒っていたから、少しおかしかった。長男は陸軍に、長女はスウェーデンの鉱山技師の所へお嫁に、次女は歯科医と結婚した。
この間の地震、原発事故のあとに心配して会社に電話がかかってきたのだが、あいにく不在で電話に出られなかった。そのうちまた行くだろうと思うが、再びコロンビアに行く幸せな日々に二十九年巡り合えないでいる。
先月、ザ・ピーナッツの伊藤エミさんが亡くなったと訃報欄に出ていたが、そこにお二人で歌われている写真があってとても懐かしかった。
たしか昭和40年頃の夏だったと思うが、父と清水の映画館の前を通ったら看板に「モスラ対ゴジラ」の派手な絵があって一緒に観ることになった。館内はもうほぼ満員だったが、右側の最前列に空席を見つけそこに座った。実は映画を見たのはこの時が初めてで嬉(うれ)しかったのだが、座るとすぐ見上げるような巨大ゴジラが登場して大声で「ギャオー」と唸り声をあげたから思わず腰を浮かした。自衛隊の必死のミサイル攻撃も難なくかわしてしまうゴジラ。そこに小指のような大きさの白い服を着た姉妹が「モスラやモスラー…」と歌って登場だ。とにかく南の島のジャングルにまで来て一生懸命歌っているのだからきっとモスラも頑張ってくれるに違いない、と思った。
私の父は68歳で舌ガンを発し、その後の転移で74歳で亡くなった。最後の手術の前にもう1回一緒に映画に行こうか、と言う事になっていたのだが、見る予定の映画が高倉健主演の映画で特攻隊のことを描いた悲しい物語だったので、ついためらい、約束を果たせなかった。だからあの「モスラ…」が父親と二人で見た最初で最後の映画になった。本当にたった一回の父との映画の思い出。あの時、清水の羽衣劇場で聞いたザ・ピーナッツさんの歌声を今も忘れない。伊藤エミさんのご冥福をお祈りしたい。
私はかつて保険会社に12年間勤務した。新人のときに配属された先は本店の金融機関担当課だったが、そこには通常の銀行などの取引先の他に、今でいう住専(住宅金融専門会社)の保険引き受け窓口があった。
その年の秋になると、にわかに先輩社員が住宅ローンの保証保険、長期の火災保険の申込書をカバンどころか風呂敷にも入りきれないほど、大量に会社に持ち帰るようになった。毎月毎月、契約の計上ができないほどの量だった。
1年ぐらいたったある日、突然検察がやって来た。何者かが、多数の住宅が建設されたように書類を偽造し、不正に資金を受け取ったという。大規模な破たんも始まった。過去引き受けた保証契約が次々と延滞・支払不能の事故になった。年間の収入保険料が30億円の営業課が、これらの保険事故で実に百数十億円の巨額保険金の支払いに追い込まれた。社会人1年生だったからその驚きも大きかった。
日本はその後に本格的な住専事件が、最近の米国ではサブプライム事件が、また現在のスペインでは「カハ」と呼ばれる住宅金融機関に大量の焦げ付きが発生しているという。バブル崩壊からまだ20年、日本でもこれから3世代ぐらいの世代交代があれば記憶が薄れ、また再びバブルがやってくるに違いない。70億人の人類はそれほど賢くない。人間は目先の欲得に目がくらむことのある原始的な生き物なのだろう。
たまたま6月に会社に来たイルクーツク出身のロシア人から、戸田で日本人と帆船を作った提督プチャーチンの物語を聞いて驚き、それではと、50年ぶりに戸田港に行ってみた。
発端は嘉永7年(1854年)11月4日の東海大地震だった。下田に条約交渉で停泊していたロシア軍船ディアナ号に運命の「大津波」が襲う。大破した船には応急処置がなされたが戸田への曵航の途中に今度は駿河湾でしけに遭遇する。500名を乗せたディアナ号は富士川沖まで流されたのだが、その時ロシア人を救えと国禁を犯して千人を超える富士の住民が沿岸に集結、懸命の救援活動で全乗組員を救ったという。
感激したプチャーチンは軍所有のスクーナ型という帆船設計図を日本側に公開した。戸田の船大工らの技術は極めて高くわずか100日で日本初の洋式帆船「戸田号」を建造しプチャーチンを驚かせた。
苦心の末、日露和親条約で日本・ロシアの分界をエトロフ、ウルップに設定して北方4島を初めて日本領土と定め、また後に母国の海軍元帥にもなったこの偉人の肖像画が戸田御浜の博物館に残っている。「我が魂を永久にこの地に留めおくべし。」画の下に書かれたこの言葉にプチャーチンの静岡人への尊敬と感謝の言葉が凝縮されている。戸田号でロシアに帰ったプチャーチンの感激はいかばかりだったろう。30年後、娘で宮廷女官のオルガは静岡の地にお礼の訪問を果たしたという。この夏、久々に感動した。
私は23歳から8年間、独身寮に住み寮長までして楽しく過ごした。寮というところは普段関係のない部門で仕事をしている仲間と語り合う機会もある。「同じ釜の飯を食う」というが、まさに同じ場所で寝起きし、同じ食堂でともに飲食をする。独身寮の先輩後輩なら、いつ再会しても昨日まで一緒だったかのような親しさや連帯感がある。
大帝国オスマントルコには史上最強の美男子軍団と言われたイエニチェリという近衛師団があった。15世紀より征服したバルカン半島から、キリスト教徒で10代の白人少年を徴用して改宗させ、当初は妻帯も許さず長く共同生活をさせて強大なスルタンの直属軍団を作った。1453年のコンスタンチノープル陥落、1529年のウィーン包囲作戦も主力はこの数万のイエニチェリの精鋭だったが、その軍旗は連帯を誇示する「大釜とスプーン」だったそうだ。
日本はいま核家族という言葉が使いにくいほど、家族の単位が縮小している。家族の幸せはあまり大きな家には住まず、多めの家族が同じ場所で同じ時間に同じ「釜の飯」を食べる事が原点ではないかと思う。それが子供たちの社会性を生み国家の未来を育む。「サザエさん」の一家も7人家族だ。血縁同族であるかは別にしても、同じ釜の飯を食べる人数は多い方がいい。その意味で会社には良い独身寮が必要だ。最近増えていると聞く。そのほうが若い人の人生も楽しいに決まっている。多くの若い社員が環境のよい独身寮で伸び伸び育つのが自分の夢だ。
福島第1原発の事故で残された犬猫たちのペットシェルターが福島にある。獣医大学ご出身のペット専門店の経営者と社員の方々が、今もペットの救済活動をされている。私も掃除の手伝いに3回だけ行かせてもらった。小屋を掃除し、1日1回の散歩に出る。その中に飼い主さんが避難地域の方と分かっているポインター犬がいた。体重は60キロ、身長1メートルはある堂々たる猟犬だ。
私の父は自分が小学4年生の時まで猟をやっていたある日、山でイノシシを撃ちに行った時、母を失った小さなイノシシの子を見て、その日からきっぱり猟をやめた。その最後の頃の猟犬でメリというメスのポインターがいた。晩年になって腰が立たなくなってしまい、冬の寒い日に母と弟とメリの小屋に湯たんぽを入れに行った。こっちを向き精いっぱいしっぽを振ってくれたのを見て子供心に嬉(うれ)しかった。
福島で50年ぶりにポインターに出会い幸せだった子供時代を思い出し、思わず抱きしめてしまった。英国のことわざに「子供が生まれたら犬を飼え」というのがあるそうだ。赤ん坊のときは子供を守り、幼年期には遊び相手に、少年期には良き理解者になり、最後に子供が青年になる時、死をもって命の尊さを教える。
最近は小型犬全盛の時代だが、あの忠犬ハチ公も子犬のころ、ジョンというポインターに守られてしばらく一緒に渋谷駅に通ったという。このような優しい大型犬を安心して家族で飼える時が再び自分にも来るといいなぁ、と心から思う。
学校を出て東京海上という保険会社に就職し東京の大田区にある人員65名の独身寮に入った。ある朝、靴を磨いていると遠くの方から大柄で頑健そうな人がゆっくり歩いて来た。自分からあいさつするとにっこり笑い「6年目の隅修三です、よろしく」と言われた。二言、三言の会話だったが、これは今大変な人に出会った、企業の中には優れた人も多いだろうがこの方は特別だ、今日は人生で最も偉大な人に出会ったのかもしれない、と感動し、しばらくその場に立っていた。
翌年の5月に定例の人事異動があった。実は隅さんには中東へ異動の内示があったが何とそれに反論をされたらしいと、寮内は騒ぎになった。隅さんはその時、原油精製の設備や海外プラントの引き受け部門におられたのだが、噂(うわさ)では「自分が今駐在員で海外に行くのは現在の会社にとって適切でない」と言い放った、というのだ。無論寮生は間違っているのは全て会社で隅さんの主張の方が正しい、とまるで家族で擁護するような雰囲気になった。
あとでそれは誤解だったというような事になったが、事実がどうでも、私はこのことで隅さんの寮での人気と人望が際立って証明されたことが非常に嬉(うれ)しかったし、一層敬服もした。
寮で垣間見た隅さんの立ち居振る舞いは男の中の男、いまだに神のように崇拝している。30年後、成るべきして社長になられたが、私は隅さんと一緒の会社で働かせてもらった若い時代があったという事が真に人生の誇りであり、生涯絶対に忘れることはない。
「日暮れて道遠しだなあ」。60歳を少し過ぎた頃、一緒に家で晩酌をしていた父がふとつぶやいた。突然の言葉だったが、当時30代半ばの私には人生もそんなものかな、と思って少し寂しい気がしたのを覚えている。
この「日暮れて—」の名言は今から2500年前、春秋戦国時代の伍子胥(ごししょ)という人物が残した言葉だ。伍子胥は楚の名門に生まれたが、主君平王の暴政によって最愛の父と兄を失う。執拗(しつよう)な追っ手から逃れ、呉に下った伍子胥は楚と平王に終生の報復を誓い、呉の宰相に就任したのちの紀元前506年、軍師孫子と共についに楚の攻略を果たす。楚都に入った伍子胥はすぐさま平王の陵墓を暴き、王の死体を引きずり出してそのしかばねに300回もむち打ったという。
この凄惨(せいさん)な事件に旧友らはいつか天罰が下るといさめたが、伍子胥は心情を返書にしてこう書き送った。「吾日暮れて道遠し。ゆえに倒行してこれを逆施するのみ(自分は年老いて行く身だが道のりはまだ遠い。だから非常識な振る舞いだと分かっていてあえてやっているのだ)。」逃亡した楚王朝を追った伍子胥も今度は南の越との「呉越の宿命の対決」に引き込まれ、ついに復讐(ふくしゅう)を果たせないまま無念の生涯を終える。
歴史上のどのような英雄・豪傑もその活躍の時は終わってみればみな「一炊の夢」だ。私たちも学校に行って成人し、社会で奮闘できる時間は僅かに40年余り。自分もあの時の父親の年齢に近づいた。
人生の時間は短く、そして常に「日暮れて道遠し」なのだと、今自分は静かに自覚している。
私は幼年・少年時代を由比町の海と山に親しみ、それを思いっきり満喫した。昔の由比は夏の夕暮れ時には山からミカンの花の匂いが降りて来て町中が甘い香りに包まれた。冬になると山は半分オレンジ色に染まった。その子供時分の山での最大の関心は何といっても「けんかグモ」の採取だった。とにかく海に行かない日には晴れた日も曇りの日も、暗くなるまで山に入ってクモ探しに熱中した。
このクモは柔らかい青葉を丸めて巣を作る。巣を見つけ、丸まった所を後からそっと押すとクモの肢体が出てくる。強そうな立派なクモに出合った時の感動は言葉にならない。体長5センチ、美しい赤い足は先が細く繊細にしなる。胴は黄色、歯は黒く長い。若いクモを自分の指に這(は)わせる時はまさに至福の時間だった。オスだけが他のオスと両手を目いっぱいのばして葉の上で闘う。有力な強いクモの所在情報を聞いては、ガラス瓶に入れた自分のクモを持って自転車で出かけて行き、そこで勝負した。
今日も自分のクモは勝てるのか。勝て、僕のクモ。負けるのは嫌だ。皆、勝敗に息をのんだ。勝った時は葉っぱの上で精いっぱい勝ち誇り、自分も嬉(うれ)しかった。
毎日草むらに目を凝らして山を歩き回ったおかげで小学校4年で強度近視になった。今もド近眼のメガネを外す時、眼前にあの「けんかグモ」の美しい姿がよみがえる。遠い日の故郷の思い出。クモの名前も知らない。もし由比の山で今も元気に暮らしているのなら、すぐにでも会いたい。
子供の頃、由比の線路で東海道本線の電車を止めたことがある。それも準急列車だ。今も、例え遠くからでも大きな警笛の音を聞くとその一部始終が恐怖とともに鮮明によみがえる。
私の実家は由比町の北田という所だが、道路を挟んだ向こう側が線路でその先が 海に続く広い砂浜だった。ある時浜で一諸に遊んでいた友達が犬に頭をかまれ血だらけになった。
すぐに医者に来てもらおうと走り防波堤を越え線路を渡ろうとしたら、レールから大きな振動音が聞こえた。見上げると迫りくる緑色の車両が見える。距離は200メートルもない。恐怖で足がすくんだが、その瞬間ピーという耳をつんざくような大きな汽笛が鳴り響き、仰天して狭い路地に逃げ込んだ。すぐに大きなブレーキ音がした。振り返ると列車が停止してゆくのが見えた。これは大変なことになった、と思ったが、車掌がデッキから大声で誰だ、誰だぁーと叫ぶと、こともあろうに近所の誰かが「あっちゃんだ」と私の名前を出したのだ。「それは誰だぁー」とさらに車掌が大きな声で叫んだからもう自分も医者に行くどころではない。無我夢中で家の中に飛び込み、押し入れの奥に小さくなって隠れていた。
事件を聞き父親が急いで帰宅してきたが、押し入れのふすまの外から「敦央、けがはなかったか。心配ないよ。出ておいで」と言ってくれた。あの時のレールの音、枕木や敷石の形さえもはっきり覚えているが、今も思い起こすことは、電車を止めた事情を知って自分を一言も叱らなかった父の優しい言葉だった。天国の親父、本当にありがとう。
古里の由比町では父母も、また私たち2人の兄弟もご近所の皆さんに本当にお世話になったが最も親しかったのは実家から50メートル先の床屋さんご一家だ。自分は子供の頃から終始出入りし、あいさつもなく家に行っては当たり前のように一緒にご飯を食べた。多いときは日に何度も行った。
ここには2人の兄弟がいる。私の3歳違いの弟の間にその兄弟がちょうど入るような年格好で数十年来の幼なじみだ。長男は性格も良く東大法学部から大手の海運会社に入社し、いずれ社長にと陰ながら願っていたがロンドン支店勤務中に41歳で惜しくも早世した。次男も有能で早大政経学部を出て頭角を現し、ついに著名企業の社長になった。
2人の子供を手塩にかけて教育したおじさんは偉かったが、この家で自分のような変人も常に忍耐の精神で長く受容していただいたことに深く感謝している。幼い時から私をいつも歓迎してくれるような方がすぐ身近にいたことは人生を強く生きる自信にもなった。実は「床屋のおじさん」は宮内清一さんと言う。父とは小学校の同級生だった。識見は高く実業界ならどんな日本の大企業の経営者にもなれたと思う。今年米寿になられたが、今も変わらずに名もないただの由比の床屋のおじさんかもしれないが、男性では親父の次に世界一大好きで心から深く尊敬している。おじさん、長らく由比の家族のことを本当にありがとう。
いなば食品株式会社
取締役社長
稲葉敦央(高24回生)
私の人生の誇りの1つ、栄えある県立清水東高の卒業式で、それなりに極度に緊張していたところを3年生のときの担任の棚木先生に名前を間違って呼ばれてから早48年。その煽(あお)りか、大学は現役ではどこも落ちたから一転青雲の志どころではなく突如所属のない社会の底辺の身の上に。それはともかく学校の当時を思い出せば国鉄電車通いの友人知人たちとの毎日、いまも時に自分を支えてくれる同級生のあの時の楽しい笑顔、懐かしい人間味に溢れた尊敬すべき先生たちの面影、大学のどの教授の言葉より高校の授業での先生の一言一言、またクラスのお隣の席の仲間が発した言の葉の数々が今も鮮明に脳裏にやきつき、また、自分がそういう場所にいたことを今もとても感謝している。
花の3年1組独身寮では女子が横の廊下を通るたびに歓声を上げては盛り上がった。真珠のようにとても大切だった時間。居眠りしていたところを写真に撮られて無断で学園祭で大々的に掲示されたが友達からは津川雅彦に似ているといわれて内心、とても嬉しかった。
日本一と思っていた保険会社から父の経営していた小資本で零細な食品・ペットフード会社へ移り徒手空拳の決意でここまでを過ごしてきた。危ない時期も何度かあったが、由比の海や山で育ち、そして清水東高を出たことを自分の人生の自信としていつも思い起こし乗り越える原動力にした。「稲葉さん、高校はどこですか?」と聞かれて「清水東です」と今も応える自分がとても晴れがましい。これからも清水東高卒、由比生まれの田舎者として生きてゆきたい。その由比町から全世界へあと40拠点、35工場をつくり「独創と挑戦」の言葉を旗印に世界に販売網を構築してゆく。坂の上の雲をつかむように、清水東高の卒業式の感動と誇りを胸に、「青雲の志」を忘れず頑張ってゆきたい。心のふるさと清水東高校に永遠の栄光あれ。
わたしは子供の頃、家から歩いて3分の静岡の由比町東小学校という所に通った。実家の近所に花井先生というその小学校の教員の先生がいた。奥さんはカナダ生まれのハーフでとても美しく、英語はネイテイブだから1年の時から教えてもらいにご自宅へ勉強に通った。自分は英語圏には留学も駐在員にもならなかったが、幼心にその花井先生の奥さんの正しい英語の音声が刻み込まれ、いまもやさしく耳元に聞こえてくる。その花井先生とは終生忘れられない思い出がある。
生まれ故郷の由比町と清水市興津町の間に薩埵峠(さったとうげ)というのがある。頂上が海岸に突き出た絶景の難所は安藤広重作 東海道五十三次の由比の版画になり今日に残っているし、またその昔は山野辺明人が「田子の浦打ち出でてみれば真白にぞ富士の高根に雪が降りけり」を読んだ場所とされていて有名だ。少し先に行くと興津川という日本で最初にアユ釣りの解禁になることで有名な河川がありその興津川の河原付近には、南下した武田信玄・勝頼親子が今川義元亡き後の息子 今川氏真軍と合戦をした古戦場もある。実はその峠の真下に非常に大きくて高さ15m幅40cmぐらいのコンクリートの高い厚い壁があった。その後さすがに改修したと思うが今もあるはずだ。忘れもしない小学校6年生の春、その見上げるような15mぐらいの壁を前から一度登ってみたくて友達と4人でついに峠側からよじ登り、僅かに1mもないような頂上の平らな場所を4人が連なって歩いた。落ちれば下は東海道本線のがれきで命も危ない。電車が毎度警笛を鳴らしながら時々通過する。頂上は平たくツルツルしていてとても滑り易い恐ろしい所だった。自分でもよく落ちずに最後まで戻ってこれたと思うのだが頂上付近を歩く間、両手を天秤のようにゆらゆらとゆっくり歩いた事を今も忘れない。線路の路方がかすかに見え思った以上に怖かった。なんとか無事下界に戻ったからその後は誰にも無論、両親にも全く話さなかった。
ところが、次の月曜日の朝学校へ登校するとすぐクラスで担任の花井先生が私を見るなり物凄い形相で、「昨日、薩埵峠の高い壁の上を渡っていた4人は誰だ?」と大声で怒鳴った。「僕らですが」と他の4名と手を挙げると、「前に出てこい!!」と黒板の下に立たされ、どこから持ってきたのか知らないが、なんとソフトボール用のバットで何回も尻を叩かれた。その1発目の痛いことと言ったら脳天に強烈な衝撃が突き上がって恐ろしい痛みで息もできないほど。4回もたたかれて、2,3発目は手加減して下さっているのが分かったのだが、座席にもどったものの、しばらくは全く座れなかった。その頭に達した痛みは今も忘れないが、それよりとにかく涙ながらに自分はもう二度と危ないことはしませんからと強く神様に誓った。もしあの時先生がケツバットをやって下さらなかったら必ず次の休みの日などに調子にのって再挑戦し、今度はそびえ立つ擁壁の頂上から真っ逆さまに転落して命をなくしていたかも知れない。
あれからもう半世紀。少なくともこの40年年賀状は記憶している限り毎年のように花井先生に送ってきたが、とにかく先生が恐ろしくてまた誰が通報したのか、通報にお詫びをする先生の姿を想像して本当に申し訳ない気持ちで卒業以来一度も会えないでいる。
花井先生、命の大切さを教えるために無謀な私たちを叱ってくれて本当に有難うございました。いまも心から感謝しています。あれ以来会社でも危ないことは二度としていませんから。